自分とはどんな存在でしょうか。何のために生きているのでしょうか。私たちは気がついたらここにいました。気がついたらこの世の人になっていました。
「いのち」はどこにあるのでしょうか。身体にあるのでしょうか。それとも心にあるのでしょうか。そして生から始まって死とはどういうことでしょうか。
生には「生まれる」ということと、「生きる」ということの大きく2つの意味があります。私たちにおいては、前者は生命の誕生で、後者は生・老・病・死という人間の一生です。
無論、「いのち」は人間にも動物にも植物にも、あらゆる生き物に宿っています。いのちという言葉から、自分自身や家族のこと、身近な動物や草花のこと、毎日の食事のこと、野山や海や川といった大自然のこと、地球のこと、そして宇宙のいのちにまで、様々なことに思いが及びます。
そのような思いや疑問は際限もなく尽きませんが、人間として生きていこうとする時、そのような根源的な問いをするのは、自然なプロセスです。人間、その経験や苦闘によって自ずと成長していきます。そして心の中に生じた疑問に自分なりに回答を求めて与えることを通して、私たちの力をはるかに超えたものへの畏敬の念や、絶対的、神秘的なものの存在に気づかされていくことでしょう。そして自分の存在を確認して安心(あんじん)を得ると同時に、生かされていることへの感謝の念が生まれ、同時に、同じいのちを持った者として他者への思いやりの念も生じてくるのではないでしょうか。
さて、「いのちは誰のものですか?」と質問されますと、みなさんは大抵「もちろん自分のものです」と答えます。ちょっと待ってください。
人は独りで生きられないのと同じく、人は自分の意志によって独りで生まれたわけではありません。誕生日だって自分が決めたことではなくて、後から教えられたことです。
では、もし運悪く交通事故にあって、ケガをしてしまったとしましょう。その連絡を聞いて真っ先に心配するのは両親や家族ではないでしょうか。無事でありますようにと必死に祈るに違いありません。いのちというものは、慈しもうとする、育もうとする、愛そうとするすべての人のものであると考える時、自分一人だけの生命であるとは決して言えないと思うのです。
私たちは、いのちを考える時、自分自身の心身だけにとどまらず、自分の家族や地域社会、ひいては世界中とつながっているということを意識しましょう。水、空気、食べ物といった周囲の環境と関わりながら生きているということ、つまり自分以外のあらゆるものと関係があってはじめて自分自身が生きている、生かされていることに気づかなければなりません。 |